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伊藤拓也×筒井潤 特別対談


リュック背負って一人で行きたい場所に

 

筒井:CTT大阪事務局が過去に実施したゾンビ鍋では演出家・作家に焦点が当っていたと思いますが、今回はなぜ俳優なんですか?

 

伊藤:最近なんですが、個人的なメールのやり取りを、仕事以外の部分で出来る人が少しずつ増えているんです。同じような興味や関心がある人同士で、個人的な連絡を取り合えることを、僕はとても嬉しく思います。ですから、そういった人を少しでも増やしたい想いがある。今までは、何かの仕事をご一緒した縁で知り合うことが多かったんですが、こちらから能動的に、広く手を伸ばしていっても良いんじゃないかと思ったんです。こちらから「こういったことに興味があります」というのを、しっかりと伝えてみようと。その時につながれる人が、きっと今はいるんじゃないかと思うんです。もちろん劇団やシーンの盛衰みたいなことはいつの時代もありますが、個人で舞台を見に行ったり、演劇やダンスの情報を仕入れたり、ちゃんと同時代性に触れようとしている人は多いと思うんです。バックパッカーじゃないですが、リュック背負って一人で行きたい場所に行くような人に、出会いたいと強く願っています。

 

筒井:ひとまず企画の前提として確認しておきたいのですが、戯曲を使わない創作には、ざっくり分けると二つの方法がありますよね。分かり易く言えば、一つはいわゆるポストドラマの流れですね。作家が書いたセリフだけではないものをテキストに盛り込んだり、俳優自身の言葉を使ったりする。観客の声を引き入れることもある。しかしもう一方に、俳優を舞台に立たせて、キーワードだけ与えて、即興演技をやらせるものもあると思います。ゾンビは、後者を狙うんじゃなくて、前者ですよね?

 

伊藤:そうですね。いわゆるインプロの芝居を作りましょう、ということではないです。

 

筒井:というのも、アンテナをちゃんと張っている人は、今回の企画に興味を持つ可能性はあると思うんです。ただ、僕らのやろうとしていることに無関心な人たちに対しては、どういったアプローチを取るつもりなんですか?

 

伊藤:当たり前の話なんですが、実際の参加者よりも、興味をちょっと持ったぐらいの人の方が多いですよね。もしかしたら、なんかやってるなーぐらいの人が圧倒的多数かもしれない。でも、まずはそれでいいと思います。つまり、何も知らない状態よりも、小さくても何かしらの動きがあるということが伝われば良い。こちらがしっかりと伝える意思を持てば、引っかかる人に引っかかる。そういった小さな希望を持つことが必要だと思っています。

 しかし現実的な問題として、会話主体の台本をそのまま上演する、いわゆるオーソドックスなお芝居が大阪には多いと感じます。そして、そういった芝居を主に担っているのが、若い世代ではなく、20代後半、30代以降の人たちでは無いでしょうか。それぐらいの年齢までオーソドックスなお芝居にどっぷり浸かっていると、一つの趣味趣向になってしまいます。実際、そういった人たちの志向性を崩すのはかなり難しい。もちろん人が何を志向するのか自由ですが、速い段階から多様性に触れている場合とそうでない場合は、大きく違います。例えば今の若い世代、10代とか20代前半の人たちは、物心ついた時から、何でも検索して様々な情報の上澄みぐらいは簡単に体験できる。いまそういった世代の人たちと演劇の話をすると、映像でチェルフィッチュを観たとか、柴幸男の戯曲をネットで読んだとか、そういったことを言います。一方、僕と同世代の人や上の世代の人と話すと、そういった話がまず出てこない。映像で観たことも無ければ、大阪に来ないという理由から、直接足を運ぶことも無い。この差はとても大きいですよね。アンテナを張れば良いって話では無いですが、俯瞰的に自分の立ち位置を把握するには、知見を横にも、そして縦にも広げる必要があるんじゃないでしょうか。

 

 

 

どこかに加わろうと考える必要は無い

 

伊藤:しかしアンテナ張るってのは、時にとても孤独を感じますよね。

 

筒井:自分が孤独だと思い込んでいるが故に、すぐ隣にいることに気付けないとかもありますね。僕も常々、孤独感はありました。でも自分で言い聞かせるんです。いやいや僕はそんな孤独じゃないと。それで「たんじょうかい」をやりました。色んな作家さんの作品をやることで、多くの人にdracomの作風に触れて貰うことを意図したんです。ちなみに戯曲に関して、一言一句セリフは変えていませんが、僕は戯曲に全てを任せる形ではなく、戯曲の良さを作家自身が演出した場合とは違う引き出し方を探りたいという個人的な想いもあった。また、そういった方法を観客にしっかりと提示したかったんですね。そういった気持ちで「たんじょうかい」を3回やったわけですが、結果的に、ますます孤独を感じたんです。

 

伊藤:そうなんですか!?(笑)

 

筒井:逆にすっきりしましたよ。僕がどれだけ頑張っても、受け入れてくれる「仲間」はないのかということが何となく分かった。これは、ウイングホットプレスにも書いたんだけど、そもそも僕が入るべき「仲間」、ある集団というか、グループがあるって、当時はぼんやりとイメージしてしまっていたんです。しかし、実際はそういったグループは大阪には存在しないんですよね。そういう実感が今はあります。ずっと僕は孤独だと思っていたけれど、僕がグループだと思っていた人たちも、別にグループを作ろうとしているわけではないと分かったわけです。「たんじょうかい」を3回やって、そういったことが見えてきた。だから僕はどこかに加わろうと考える必要は無いなと思ってるんです。

 

 

 

演劇を盲目的に信じている集団ではない

 

筒井:いま目の前に大石英史君がいるから聞きたいんだけど、全く違う作風の芝居に出続けることに何か意義を見出していますか? 大石君はつい先日、維新派に出てましたが、次はTHE ROB CARLTONに出る。その振り幅は、どういった意識なんでしょうか?

 

大石:最近、思うんですが、「演劇ってなんやろ?」と自分が考えられる作品に出ている気がします。どこか演劇に対して俯瞰した視点を持っている作品というか。ジャンルとしては違う集団の作品に出ることが多いかもしれませんが、ジャンルとは違う部分で、僕はそれぞれに共通項を感じています。おそらく僕が最初は演劇のお客さんだったことが影響しているかもしれません。観客のときに思った「演劇ってなんやろ?」の延長線上で、今、俳優をしています。それなので、僕は創作過程で生まれる演劇に対しての発見に楽しみを見出しています。その結果、今のような活動スタイルになっています。

 

筒井:つまり、演劇を盲目的に信じている集団ではないと言う共通点を見出せる。

 

伊藤:僕は俳優は赤血球である、みたいな話をたまにします。俳優が色々な場所を巡るから酸素があちこちに入っていく。ですから、俳優にはもっと自由に、演劇をかき回して欲しい。海外や青年団リンク周辺の話を聞くと、演出家の権限よりも、ある意味で俳優の力が大きい場合がある。つまり、演出家が俳優を選ぶのではなく、俳優が演出家を選ぶという視点ですね。そういったバランスになると、演出家はもっと競るんじゃないですかね。

 

 

 

演技に自覚的になれば、次の一歩にいける

 

伊藤:僕と筒井さんが講師として入って、途中から、実質的には1月からチーム分けを行ってクリエーションを行うんですが、お互いの趣向性みたいなことについて少しお話しできればと思っています。

 ちなみに僕がずっと考えているのが、参加者自身の声を、どうやって舞台上に乗せるかです。最近よくやる方法は、俳優に対して宿題を出すんですね。コピー用紙4枚分ぐらいの宿題を出して、参加者にやってきて貰います。それは彼ら自身の言葉ですから、彼らはその言葉にとても自覚的に、主体的に関わることができるんですね。しかし今年の6月に岸井さんの戯曲「記憶の再生」を演出した時に改めて思ったのですが、言葉以外に、出演者が持つ記憶も創作のマテリアルとして魅力的ですね。結局は言葉を出してもらうことも記憶を扱っていることになるんですが、記憶という言葉で考えると、記憶を紐解く流れもあれば、記憶を上塗りする流れもある。出演者と共同で何か新しいものを創る場合、記憶の上塗りという言葉は、何か一つのテーマになるかなぁとは思っています。

 

筒井:戯曲を使わなくとも劇が立ち上がるといったことがゾンビの募集案内に書かれていますよね。戯曲という点で話をすると、dracomでは、戯曲の形ではないかもしれないけど、僕はテキストを書いています。つまり、dracomは書かれたテキストを戯曲として扱っている。しかし、dracom以外で演出をする場合は、そうじゃないこともありますね。

 

伊藤:僕は筒井さんのテキストがとても好きなんですが、筒井さんがテキストを書かれる際、テキストを書くきっかけが、会話としてのドラマの成立にあるんでしょうか。僕にはそう思えない部分があって、筒井さんのクリエーションの原型というか、テキスト以前の状態として、どういったものを筒井さんが見つめているのか、是非聞いてみたいです。

 

筒井:とりあえずテキストを書く時、僕らの話している言葉だけでは、なんだか言葉足らずだと思っています。日常の言葉だけでは、何か表現しきれない感じがする。しかし、テキストが全くない状態から創作を始めるのは、言葉足らずを補う方法としては失敗する予測が立てられる。だから書く時は、いわゆる戯曲じゃないテキストを書きます。今回の場合だと、僕は何冊かの本から抜粋して、それを俳優に投げるような作業をしようと思ってるんですね。それらの本は、僕が日頃から気にしていることが書かれているし、なおかつ僕が書けないことが書いてある。

 そして同時に、今回のワークショップの対象は俳優ですから、やはり演技について考えていきたいんです。演技について考え、そのことをちゃんと表明する場にしてみたい。というのも演出家と違って、俳優は演技のことばかり考えていても良いはずですよね。単純な話かもしれませんが、俳優の演技が、戯曲に描かれた人物になるってことじゃなくて、もう一歩踏み込んだ所までやっぱり行きたいんです。例えば日常に混じっている演技はたくさんあって、僕がいま録音されている状態を知りながら話しているのも、かなり演技がかっている。そういったレベルの演技について俳優に問うのは、何か面白いものが生まれるきっかけになると思います。色んな課題を与えられた俳優が、世の中を改めて見つめた時に、どういったものを演技として提示してくるのか、僕はとても興味があります。実際、自覚的になれば、次の一歩に踏み出せる俳優さんは多いと思うんです。そういった人にとっても、今回は良い機会だと思いますね。

 

 

 

劇がいつ起こるのかという部分も含めて

 

筒井:逆に伊藤くんは、演技だけしていれば良いわけじゃない、ということで今回の企画を立ててますよね。本来、俳優は演出家の指示と戯曲に書かれたことに忠実であれば、仕事を得ていくはずなのに、そうじゃないことを期待している。

 

伊藤:「演技のことだけ考えていて良い」というのは、同意できます。しかし、その演技がどの射程で問われるのかということです。観客が何かしらを通じて観るのは、結局は「劇」ですよね。つまり演技の技術の問題とかではなく、劇がいつ起こるのかという部分も含めて、一緒に考えられる人を僕は求めたいんです。

 

筒井:本来演技のことだけ考える方が、俳優としてはやっていけるはずですよね。演出家にとっても、そういった俳優の方が、おそらく都合が良い。しかし、それでは飽き足らない演出家もいる。僕が俳優として舞台に立つ時なんかは、その作品を実現する為に、とても従順な俳優になっています。もちろん意見を求められれば言うけれど、従順に俳優として関わっています。でもそれは、そういったクリエーションだからなんですね。今回は、戯曲が無いことから始まるわけで、構造上、例えば登場人物といったような演技の向かうべき場所が無いわけですね。つまり俳優は従順になりようが無い。何に従っているのか分からない。

 

伊藤:自戒の念を込めて言いますが、そういった創作を行う上で、演出家としての責任って重要ですよね。集団創作する上で、俳優の主体性があからさまに出過ぎてしまうと、自由奔放な場になりすぎる懸念がある。しかし、観客の立場で見れるのは、やはり演出家なんですね。見る仕事としての演出家がいる一方で、見られる存在の出演者がいる。その基本的な関係は、決して疎かにしてはいけないと思います。

 

 

 

それは従順さでは無くて、単にエゴ

 

筒井:何を持って従順と言うかですね。僕は一生懸命やってくれる真面目な俳優大好きだけどなあ(笑)。

 

伊藤:僕も好きですよ!(笑) ただ、俳優の職能っていまいち分からない所があると思うんです。「どうしてあの人じゃなくて、あなたが俳優なんですか?」って、その答えを俳優はちゃんと持っているんでしょうか。答えをずばり言えないまでも、ちゃんとその質問を自分に問い続けて欲しいんですね。先ほどの大石君の言葉を借りれば、演出家が「演劇ってなんやろ?」って問い続けるのと同じで、俳優なら「俳優ってなんやろ?」って問い続けていて欲しい。

 

筒井:俳優の技能として、同時に複数のものを意識しないといけないってことはあると思います。それが出来るだけでも、その人は職業的に俳優だと言ってあげて良いんじゃないかな。それと従順さについて改めて思うんですが、やっぱり従順な俳優は良いんですよ。ただ、何に対して従順かということです。演出意図や作品に対しての従順さなら良いんですよね。例えば、演劇を疑問視している演出家のところで俳優をするならば、演劇を疑問視している考え方も共有して従順である必要がある。ステレオタイプな演劇に対して演出家が疑問を持っているにも関わらず、俳優自身がステレオタイプなものを目指してしまうと、それは従順さでは無くて、単にエゴですよね。

 

 

 

どこまで意思を持ち得るのか

 

伊藤:俳優の成長ということに関して言うと、出演回数が、イコール俳優の経験値では無いと思います。俳優として、人間力を高める為にどういったことが出来るのか。俳優の三國連太郎は俳優としての地位を築いた後に、突然全てをなげうって印度放浪していたそうです。別に旅をしろってことではないですが、知り合いの劇団から呼ばれたから出演しますという受動的な流れを、何かのきっかけで変えて欲しいと思います。

 

筒井:確かに俳優として面白い人は、人間としてもかなり面白いですからね。そういう人間であろうとするのは、しかしとても難しいことでもある。

 

伊藤:ゾンビの辞書的な定義は、「無言、無意思に歩き回る死者」です。でも、僕たちは決して無言なわけでも、無意思なわけでも無い。僕があえてゾンビと付けているのは、その辺りを意識しています。俳優はアーティストとして、どこまで言葉を語り、どこまで意思を持ち得るのか。そういったことを参加者と考えられる4ヶ月にしたいですね。

 

収録:2015年10月25日 十三の喫茶店

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